Key作品考察 観鈴と渚が持っていた"黄金の心" 2人にあって他ヒロインにないものとは
⚠︎ この記事では、AIRとCLANNADのネタバレをしています。
"観鈴と渚が似ている"と考えている人はどのくらいいるだろうか?
また、そう考えてる人の理由は何か。
「観鈴も渚もkey特有の不思議病になるから」
「CLANNADに登場する幻想世界の少女のキャスティングが観鈴と同じく、川上とも子さんだったから」
「2ルートとも、麻枝准の良さがあって、半生を描いているから」
これらが間違いだとは思わない。むしろ、こういう部分が観鈴と渚の類似性としてあげられるポイントだろう。だが管理人的には、観鈴と渚に共通している一番のポイントは"黄金の心"だと考えている。
"黄金の心"は、映画監督兼脚本家のラース・フォン・トリアーが作ったジャンルである。
ラース・フォン・トリアーとは、デンマークを代表する映画監督で、度々世間を騒がす作品を作っては、各国の映画祭を総なめにする鬼才。
彼の作る作品は、所謂「鬱作品」や「後味の悪い作品」ばかり。ヲタク的に有名な「鬱作品」と言えば、「ぼくらの」、「School Days」、「エルフェンリート」、「惡の華」「NHKにようこそ!」、「魔法少女まどか☆マギカ」、「カイバ」、「灰羽連盟」、「無限のリヴァイアス」などだが、はっきり言ってトリアーの作品とは比較にならないだろう。
彼が作る作品はもっと暗いし重い、しかも報われない結末を迎える。それは、まるで"臨死体験"のようで、一度見たら脳裏を離れることはない。彼の作品を見て「もう二度と見ない・・・」と言う人も少なくないレベルだ。
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ラース・フォン・トリアーの鬱三部作の一つ「メランコリア」のポスター。
そんなトリアーが作る作品の中に「黄金の心三部作」というものがある。「奇跡の海」「イディオッツ」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の3作で形成されている。
「困難な状況下でも純粋な心を保ち続ける女性を主人公にしたのが"黄金の心三部作"」
以上が"黄金の三部作"のテーマ。
これだけ聞くと「なんだ、どうせよくある女性主人公のストーリーで、なんだかんだ"良い話"なんだろ」って思ったかもしれないが、全然違う。
実際は、「純粋な心を持ち合わせる女性が、立て続けに"理不尽な不幸"に直面し、純粋な心によって愚かな決断を下す」というのが流れで、それこそが"美しい"と言わんばかりに作られている"悪趣味で最低最悪の作品"だ(作品のクオリティ自体は非常に高い)。
興味がある人、特に春休みに突入して時間がある学生さんはぜひ見てください。
前述したが、観鈴と渚は"黄金の心"を持っている。
困難な状況下に陥っても、純粋な心を失わない。そしてその純粋さが愚かな決断をする。理不尽なことに立ち向かう姿、"黄金の心"を持っていたから、観鈴と渚は美しかった。
あらかじめ書いておくが、愚かな決断が間違った判断だと言いたいわけではない。
例えば観鈴の場合、発作が起きる可能性を分かった上で、主人公の国崎往人と遊ぼうとする。純粋な心が、"遊びたい"という思いを強くする反面、これは"愚か"でもある。往人や晴子さんに迷惑をかけるし、何より"発作"が起きるかもしれないということを理解してるからだ。それでも往人と"遊びたい"。"純粋な心"が"愚かな選択"をしてしまうのだ。
もし、観鈴の心が純粋でなければ、一度発作が起きたらその事を学び、人との関わりは極力避け、塞ぎ込んだまま死ぬだろう。
渚も同じだ。自分の体が弱いことを分かった上で、"汐を出産する"という選択をした。"純粋な心"のせいで、"愚かな決断"を下し、渚は死んだ。この"愚かな決断"によって、渚を失った朋也は、しばらくの間、自暴自棄になってしまった。
結果的にAIRもCLANNADも報われた"結末"だったが、それはあくまで結果論だ。観鈴と渚は、"自分の身"より"自分の願い"を優先しているのが明確である。勘違いしそうだが、"自己犠牲の精神"とは違う。あくまで、観鈴と渚には明確な意志があって、誰かのために自分の命をかける"ヒーロー"とは別。そもそもだーまえの作るキャラクターにヒーローはいない。
だーまえの"テーマ"である「どんな困難ことがあっても一生懸命生きよう」と、黄金の心三部作の"テーマ"「困難な状況下でも純粋な心を保ち続ける女性」は、非常に似ていて相性も良い。
そもそも、観鈴と渚は一方的に体が弱り苦しんでいくが、よくよく考えてみれば理不尽極まりないことだろう。黄金の心三部作に登場する女性も同じで、頑張って生きてるのに苦しむことが多い。
とはいえ、トリアーの定義した"黄金の心"は、素人目には判断が難しい。なので、観鈴と渚は"黄金の心"を持っているのに対し、他のkeyヒロインはどうなのか分析してみよう。
まずは棗鈴から。彼女は純粋な心を持っているが、観鈴や渚のような黄金の心を持っているとは言えない。
そもそも、"黄金の心"における困難な状況下と言うのは、守りたくても守れない状況である。常に理樹やら恭介たちに守られてきた鈴は、"黄金の心"に当てはまらない。観鈴と渚は、体が弱っていくのをどうすることも出来なかった。観鈴の場合、往人の力によって延命するものの、"観鈴が苦しむ"ということが延期されただけで"回避"したわけじゃない。また、"理不尽な状況下に陥り、一方的に鈴が苦しむ"描写がリトバスにはない。
次に仲村ゆり。ここまで記事を読んでもらうとゆりっぺを含めて死んだ世界戦線メンバーが"黄金の心"を持っているように思えなくもない。
理不尽な人生を歩み、その理不尽だった人生に"怒り"を抱いている。こう言っちゃあれだが、ゆりっぺの考えが間違い(愚かな決断)だった時もあるかもしれない。でも結局は、ゆりっぺも"黄金の心"じゃないだろう。
彼女の人生が理不尽だったのは生前で、死んだ今となっては関係ない話だからだ。"天使との戦い"が、観鈴や渚が味わっていたような"困難な状況だった"とは言い難い。食券を巻き上げるたびに戦いが起きていたが、"不幸が連続した"とかはなかったので、やはりゆりっぺは"黄金の心"じゃない。ただし、ゆりっぺの生前は"黄金の心"だったかもしれない。
最後に、友利奈緒と比較しよう。友利は絶対に違う。理不尽に直面するのは友利ではなく"乙坂"の担当であるからだ。彼女の人生に理不尽な不幸があるかないかは別だが、Charlotteは乙坂の物語で、友利が理不尽なことに抗い続ける作品じゃない。どちらかと言うと"黄金の心"を持っているのは乙坂なのだ。ただし、男性キャラクターは"黄金の心"を持たないと定義されているので、乙坂を含めて主人公連中は全員該当しない。
とりあえず、"黄金の心"に当てはまらない3人を例に出した。では逆に、観鈴や渚のように当てはまるのは誰か。例えばAIRの晴子さんや、「智代アフター」の智代がそうかもしれない。
ただ、"黄金の心"の定義が曖昧なため、観鈴や渚ほどはっきりと当てはまるかと言われると難しい。やはり、観鈴と渚は一番分かりやすく"黄金の心"を描いているだろう。だーまえが"黄金の心"を知っているとは思えないが、AIRやCLANNADの全盛期、「key作品って鬱っぽいからなー」と言われることがあった。そう言う人はkeyを理解していないんだろうし、今ほど作品の種類がなかったため、"黄金の心"の描写によってそう思っていたのかもしれない。
管理人的に思うのは、"困難な状況下でも純粋な心を保ち続ける人間は、例え純粋な心によって愚かな決断を下しても、その生き様こそが美しい"のだ。そしてこの"美しさ"が、観鈴と渚の共通点じゃないだろうか。