緋色流 レビュー&考察

鑑賞したアニメや洋画のレビュー、考察などをするブログです。

Key作品考察 Charlotteの"その後" 乙坂と友利の試練はまだ始まったばかりだった

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⚠︎ この記事ではCharlotteのネタバレを含んでいます。

 

今回の記事では、タイトルの通り「Charlotteの"その後"、乙坂と友利はどうなるのか」を考察していきたいと思う。

 

Charlotteの最終回は、非常に"希望的な終わり"を迎えている。

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"希望的な結末"を描いているのには、理由がある。麻枝准が初めて脚本を書いたオリジナルアニメ「Angel Beats!」の反省を活かしたからだ。ABの最終回は、「どっちつかずの結末だった」「バッドエンドじゃねえか」等の批判が少なくなかった。これらの批判を受けただーまえは、意図的に、Charlotteを"わかりやすくハッピーエンド"にしたんだろう。

問題なのは、"その後"。言わば"Charlotte After Sotry"にて、乙坂と友利は希望に満ち溢れた幸せな人生を歩めたのか??

 

Charlotteの最終回を見て、「智代アフター」を連想させている人も少なからずいた。Charlotte智代アフターかどうかは一旦置いとくとしても、管理人が思うに"乙坂と友利"の試練は、最終回後から始まるだろう。

 

まず、乙坂有宇について。彼に関して言えば未確定要素があまりにも多い。一つずつ説明していこう。

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①"乙坂が回収した能力はどうなったのか"という点。

乙坂は、全ての能力の回収に成功している。勘違いしそうだが、彼は"能力を治した"わけではなく、自分に"感染させた"だけだ。回収した能力がどうなったのかは、明かされていない。乙坂自身が記憶を失ったため、周りの人間も能力について知ることが出来ないのだ。

これは、大変危険な状態でもある。もし歩未のように、能力が暴走したら大変どころじゃ済まないだろう。さらに言えば、乙坂は世界中の(元)能力者を含めた様々な人間を敵に回してる。賞金首にもなっていた。襲われた拍子に能力が暴発するかもしれない。また、能力を把握していない今の乙坂の状態を知れば、誰が襲いに来たって不思議じゃない。世界のためとは言え、あれだけ派手に暴れたのだ。乙坂が狙われるのは当然のことだ。能力を失っていたとしても、乙坂の狙われる確率が下がるわけじゃない。むしろ、狙われやすくなるだけだ。

 

②"本当に乙坂は記憶を失ったのか"という点。

 

言っちゃあれだが、完全に記憶は消えたのか?そもそも乙坂は、タイムリープ以前の記憶を、ZHIENDのライブで思い出している。つまり、記憶なんてきっかけさえあれば、呼び覚ますことが出来る。

PTSDという病気をご存知だろうか。死を意識するような体験によって、心理的なトラウマが発生してしまう病だ。主な症状は、フラッシュバック、睡眠障害、無力感、警戒心など。この病は、兵士に多く見られる。乙坂も「歩未の死」「テロリストとの戦い」「能力回収の旅での錯乱状態」などの断片的な記憶が、フラッシュバックする可能性があるんじゃないだろうか。思うに、トラウマである経験は、必ず乙坂の中にあるだろう。能力の代償で記憶を失っているのに、トラウマごと消し去ってしまうなんて、乙坂にとって都合の良いことではないか。①に繋がってくるが、それらの障害でパニックに陥った乙坂が、能力を暴走させるリスクもある。

 

③"乙坂の代償は、記憶だけなのか"という点。

 

②で指摘したが、トラウマを含めた全ての記憶を失うのが代償なんだろうか?乙坂隼翼やサラ・シェーンは、視力を失っている。乙坂の"略奪"という能力が、脳をパンクさせたのは理解出来る。だが、乙坂の場合、他の能力を乱用している。尺の都合上それほど描かれてなかったが、素早く能力を回収するために、奪った能力を活用していたのは間違いない。あの旅で、どの能力をどれだけ使ったのかはわからない。だが、それ相応の対価が必要になるはずだ。様々な障害を持ち合わせた乙坂が賞金首になっているなんて、彼の人生の苦痛は今から始まったと言っても過言じゃないだろう。

 

そんな乙坂と恋人になる約束をした友利。

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彼女の人生も、大変なのはこれからである。母性の強い友利は、献身的に乙坂を支え続けるだろう。逆に、それが友利にとって試練になる。①②③で説明してきたが、乙坂のいる状況は絶望的だ。しかも、どんな障害があるのか不明。彼を支えるというのは、友利もとんでもないリスクを背負っているということ。確かに、智代アフターを連想するのは無理もない。キャラクターたちがダブるからだ。

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言うまでもなく、友利は智代だ。同じシルバーの髪を持ち、生徒会に所属している。なおかつ孤独で強く優しい女性だ。

乙坂と朋也も記憶障害という共通点がある。

 

ひょっとするとCharlotteの"その後"は、我々が考えている以上に重く暗い人生で、乙坂と友利の苦悩はこれから始まるのかもしれない。"永遠の幸せ"なんて絶対にあり得ない。だーまえの描く世界は、「人生は、幸せなこともあるが苦しく辛いこともある」が共通している。それが人生というもの、乙坂と友利のその後は、辛く苦しいことが続くかもしれない、それでも必死に生きるのだ。

 

一見すると"希望的な結末"だが、彼らの人生はまだ始まったばかり。2人は運命に立ち向かい続けるだろう。願わくば、ビデオログには皆の笑顔だけが収められ続けてほしい。

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Key作品考察 麻枝准とファン 双方の求める作品が一致するとは限らない

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今回の記事では麻枝准こと、だーまえを焦点にし考察していきます。

 

http://mharayaruo.blog.fc2.com/blog-entry-42.html?sp

この記事では、Charlotteの総括をしつつ、だーまえの作風などがまとめてある。非常に興味深い記事になっているのでよければ読んでください。

 

さて、先の記事を読まなくても多くの鍵っ子が気付いている通り、"だーまえが描きたい作品"と"ファンが求める作品"は必ずしも一致しないということについて。

このような"ファンとの相違"は、作り手にはよくあることで珍しいことじゃない。例えば、監督兼脚本家のジョージ・ルーカスもこのような相違関係だった。

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だーまえやルーカスのような優れた作り手には、頭の中で自分の描きたい作品が明確にあり、それらの作品のテーマもぶれてないことが多い。

自分の中で描きたい作品を決め、自ら脚本を書き、作品を作るのがルーカスのやり方だ。"自分の描きたい作品"を作り上げることに囚われており、ファンの意見より"自分の考えを優先"にする。その作品作りは徹底していて、所謂、ファンサービスやオマージュも必要最低限にしかやらない。その結果、"ファンが求めている作品"とかけ離れているものになった。当然批判の嵐だ。

それに対してだーまえは、"ファンの声"を何より気にする。先の記事を丸々引用するが、だーまえ作品には一貫して「どんな困難な事があっても、全力で頑張って生きていこう」というテーマがある。このテーマを伝えるのが彼にとって大事なことなのだ。"泣きゲー"だの"泣けるアニメ"だの言われるが、不幸まみれなキャラクターたちに同情して"泣く"のではなく、"必死に生きるキャラクターたち"に胸を打たれてほしいのだ。

これは人によるが、"キャラクターの死"が"涙"に直結するのもだーまえの狙いじゃないだろう。「どんな困難な事があっても、全力で頑張っていこう」の結果に"死"が待っているだけだ。

 

智代アフター 〜 It's a Wonderful Life〜」 

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"麻枝色"が強いと言われる作品でもある「智代アフター」。皆が知ってる通り、この作品はボロクソに叩かれた。未だに「智代アフター」だけは、認められないと言う人がいる。しかし、この作品は"だーまえ自身が最も描きたかった作品"とも言われている。結果的に、KanonAIRCLANNADで獲得したファンの何割かは、「智代アフター」でkeyから離れていった。この時点で、"だーまえとファンの相違"があったのだ。麻枝色の強い作品なのに、ファンが離れていったのは"相違"が影響しているんだろう。だからこそ、麻枝色の強い「智代アフター」が最高傑作だと言う人もいる。残念ながら離れていったファンたちは、自分たち(ファン)の求めている作品と「智代アフター」に違いがあり過ぎたのかもしれない。

また「智代アフター」がバッドエンドだと言う人も多い。自分はバッドエンドだとは思わないが、そういう意見があるのもしょうがないとも思う。感情移入出来なかった人たちは、バッドエンドだから低評価にしていることも多かった。続くリトバスでもだーまえは、キャラクターの全滅エンドを当初企画していたらしいが、そんなことをしていたらファンが余計に去っていたかもしれない。

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だーまえという人は、「どんな困難な事があっても、全力で頑張って生きていこう」のテーマを伝えるためには、キャラクターたちの生死は厭わないのだ。その結果、主人公やヒロインが死んでしまうことがある。

 

Angel Beats!もそのテーマに沿って出来ている作品だ。最終的にはキャラクターたちが、生きることに前向きになっている。すでに死んでしまっている彼らは、再び人生を歩み、全力で生きようとするのだ。リトバスでは、麻枝色がやや控えめな印象だが、ABはそんなことないだろう。結局、ABも批判が多い。そもそも尺が短い、キャラクターが多すぎる、設定が雑、まずアニメとしてどうなんだ?っていう批判も少なくない。もう一度言うが、リトバスより麻枝色が強いのは、確実にABだ。理不尽な人生に立ち向かい、再生を描く。

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しかしまたしても麻枝色の強い作品が叩かれた。尺の問題かもしれないが、主人公である音無に感情移入出来なかった人も多かったようだ。これは「智代アフター」のキャラクターたちに感情移入出来なかったのと同じかもしれない。

 

その後、ABの反省を活かしCharlotteを作っている。が、Charlotteに至っては、ABより評価が低い。

 

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Charlotte最終回後の感想メールが、「友利が可愛かった」というものばかりだったとだーまえは明かしている。この感想はだーまえにとって無意味、というかテーマが伝わってないと受け取っただろう。Charlotteは主人公の乙坂有宇のための話である。彼の成長を描いている。ヒロインの友利は乙坂を支えるための存在でしかない。

特に最終回では、乙坂以外のメインキャラは最後の最後まで出てこない。意図的に"乙坂"だけをフューチャーしていたんだろう。Charlotteは乙坂が、全力で生きようとする話だからだ。それなのに感想が「友利が可愛かった」ばかり。いや、確かに友利は可愛いけども・・・可愛すぎるのも罪だったようだ。

 

あまり指摘してこなかったが、だーまえは批判を浴びると凹みまくる。

智代アフター」の批判で、休職ギリギリまで追い込まれたというのは有名な話だ。

自分が描きたい作品でテーマをきちんと伝える。そしてその作品を認めてもらいたい一心なんだろう。認められるまで作品作りをやめないんじゃないだろうか。

 

ファンの意見を最も気にするのに対して、"自分が描きたい作品"と"ファンが求めている作品"が一致しないのはなんとも言えない気持ちになる。

自分の思いを全力でぶつけた「智代アフター」がボコボコに叩かれたわけだ。「智代アフター」のような自分の最も描きたかった作品で、ファンに認めてもらいたのが本音だろう。だーまえ自身、昔のファンを見返してやりたいと思っているのかもしれない。

最新作のSummerPocketsでは"麻枝色"がどれだけ出ているのか、また"古き良き作品(AIRCLANNAD)"と"だーまえが描きたい作品"の二つをうまいことハイブリッド出来るか。サマポケにはその辺りを注目していきたい。

 

key作品に求めてることは、ファンそれぞれなのかもしれない。ファンというのは、うるさくめんどくさい生き物だ。今一度我々ファンが、だーまえに"何を"期待しているのか、"だーまえが描きたい作品"とは何なのか、考えてみるべきなのかもしれない。そして、"我々ファンが求めている作品"と"だーまえが描きたい作品"は、必ずしも一致するとは限らないことを頭に置いとくべきだろう。

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考察 key最新先Summer Pocketsについて 古き良き作品はウケるのか

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key最新先のSummer Pocketsの発売まで残り4ヶ月。楽しみにしてる人も多いのではないでしょうか。情報もちょっとずつ解禁され、鍵っ子たちもそわそわしているのではないかと。自分もその一人。くっそ楽しみだ。

 

さて、今回はそんなkey最新先のサマポケに思うところや、何を狙って作られたのかを考察していきます。

 

まず、多くの人の第一印象でもある"Summer(夏)"について。

"夏"と聞いてAIRを思い浮かべるのは当然のことだろう。

製作陣によると意識したのはAIRではなく「ぼくのなつやすみ」シリーズとのことだが。

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とはいえ、"季節"が全面に出てる作品は随分久しぶりだ。というのもここ最近のkey作品は"季節"を活かせない設定だったりストーリーが多かった。サマポケはKanonAIRCLANNADみたいに"季節の色"が出るのだろうか。

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まあでも、"ぼくなつ"を意識しているということを鑑みるに、keyは"古き良き作品"を目指しているんじゃないだろうか。"原点回帰"とは違うのかもしれないが、"新しさ"がどれだけ出てくるのかもポイントだ。

 

              "古き良き作品がウケるのか"

 

こればかりはどうにもならないことでもある。言ってしまえば、もし仮にサマポケが"古き良き作品"を目指していたら、それは昔からいるファンのための作品になりかねない。もちろん、ファンサービスは大事だ。昔からkeyを支えてくれているファンへの恩返しでもある。問題は、そういう作品が今のヲタク達にウケるのか??という点だ。どこかのまとめサイトにて、Summer Pocketsが全然話題になっていないと言われていた。もしかして、興味を示しているのは昔からのファンだけじゃないのか??前述した通り、ファンサービスは大事だ。"古き良き作品"にリスペクトを示すのも大事だ。自分もちょっとしたファンサービスを楽しみにしている。心配なのは、今後のkeyを支えていくファンが増えるのか。現実的な話だが、"新しいファン"というのが必要なんだ。"これからのkey"のためにも。

 

もっとも、この記事はサマポケが"古き良き作品"を意識しているという前提で話を進めている。それに"古き良き作品"が今のヲタクに響いて大ヒットする可能性だって十分にありえる話だ。実際は、ゲームをやってみると、目新しいことだらけなのかもしれない。願わくば目新しさに溢れている作品にはなっていないだろうか。

 

皆さんはサマポケについてどう思いますか?楽しみである反面、不安な気持ちが自分には少なからずあります。

考察「CLANNADは人生」とは "傑作"の特徴 名作品との繋がり

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ブログを閲覧してくれたフォロワーさんから指摘がありました。

まず、この記事ではAFTER STORYはCLANNADの続編という前提で話が進んでいます。それがイメージ出来ない人は、前編後編別れている小説やパート1パート2に別れている作品を思い浮かべて読んでください。

 

CLANNADは人生」、もはや名言でしかない。某2ちゃんねるのレスが元ネタだが、今や多くのヲタにとって馴染みの言葉になっている。

 

なぜ「CLANNADは人生」と言われるのか??以前ABのテーマを考察する記事で指摘したが、正確には"半生"を描いていて、人生の最初から最後までがあるわけじゃない。

 

CLANNADをプレイ/視聴した人の多くは、"AFTER STORYからが本番だ"と言う。

"AFTER STORY"とは、言わば"続編"であり、CLANNADが"1"だとしたら"その後"を描いているAFTER STORYはCLANNAD"2"みたいなものだ。

普通に考えてみればこれはおかしい。1作目より2作目の方が優秀なのか??と思うだろう。だが、AFTER STORYは本当に優秀で紛れもなく"傑作"である。

 

「人気作の続編はヒットしない」という"ジンクス"がある。これは別に、ゲームやアニメに限った話じゃない。物語というのはなんでもそう。基本的に最初の作品が、一番優れていて続編から徐々に"右肩下がり"になるのが一般的だ。

 

ターミネーター2」と「ダークナイト」という作品をご存知だろうか?

もしかするとアニヲタにはあまり馴染みがないかもしれない。

ターミネーター2」は、1作目から10年後を舞台した作品。殺人ロボットが未来からやって逃げ回るというのが主なストーリーだが、ロードムービーになっていて"親子愛"について描いている。

ダークナイト」は、人気アメリカンコミック"バットマンの実写化"作品。宿敵ジョーカーとの戦いを非常に暗いテイストで描いている。こちらもシリーズの2作目で、1作目に「バットマン ビギンズ」がある。

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実はこの「ターミネーターシリーズ」と「ダークナイトシリーズ」には、「CLANNAD」と大きく共通している部分があるのだ。

 

"1作目が特別優れているというわけじゃない"

 

ターミネーター1」は、ただの"B級SFアクション"で"人間ドラマ"描写はほとんどない。

バットマン ビギンズ」だって、「ダークナイト」がなければ"変わったアメコミ映画"という認識止まりだっただろう。

CLANNAD」もそうだ。「AFTER STORY」がなかったら"key最高傑作"とは言われてないはず。

この3作品に共通しているのは、2作目の方が圧倒的に優れている点だ。驚くべきは2作目の方が俄然高いクオリティを誇っていること。

もちろん、1作目がよかったから2作目も作られたのだが・・・

 

他にもCLANNADと類似している名作を挙げていこう。

 

ゴッドファーザーPARTⅡ」と「スター・ウォーズ エピソードⅤ 帝国の逆襲」、この2作品も「CLANNAD」と類似性が見られる。

ゴッドファーザーシリーズ」とは、イタリアマフィアのファミリーの話で、3世代に渡って世代交代するのが特徴。「PARTⅡ」では、ファミリーの2代目ボスになった主人公の"その後=AFTER STOR"が描かれている。

スター・ウォーズ エピソードⅤ 帝国の逆襲」とは、前作から3年後を舞台にしている。基本的な雰囲気は1作目と変わっていないが、"父親の存在"が"主人公の運命"を大きく左右する展開になっている。

「AFTER STORY」と「ゴッドファーザーPARTⅡ」と「帝国の逆襲」は、"父親と息子"という関係がフューチャーされている。またこの2シリーズにはCLANNADと同じく、3世代が登場する。「ゴッドファーザーシリーズ」は父親と息子(主人公)と甥。

スター・ウォーズシリーズ」も父親と息子と甥。

知っての通り「CLANNAD」も、岡崎直幸(父親)と主人公である岡崎朋也(息子)と岡崎汐(孫娘)の3世代が登場している。岡崎史乃(朋也から見て祖母)が登場するが、彼女の物語は描かれていないため、世代にカウントしない。

それだけじゃない。CLANNADには様々な"家族"が登場し、"世代"が変わっている。古河秋生(父/義理の父)と古河渚岡崎朋也の関係も"親子"だ。

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かつて朋也と渚たちと青春時代を送っていた、藤林杏というヒロインがいる。彼女は成長し、保育士になるという夢を叶えている。その保育園に朋也と渚の娘である"汐"が通園しているのだ。縁はどこで切れるか分からない。

「AFTER STORY」にはそういった"縁"を感じる場面が多数ある。前作からの展開を無駄にはせず、きちんと続編に繋げている。こういうところも「AFTER STORY」が傑作である一つの理由だろう。

また「CLANNAD」が、どのような作品を意識して作られたのかは不明だが、「ターミネーター2」「ダークナイト」「ゴッドファーザーPARTⅡ」「スター・ウォーズ エピソードⅤ 帝国の逆襲」などの映画史に残る名作と共通している部分も多い。偶然なのかわからないが、優れた作品には、優れた共通点が多いのも当たり前だろう。"人気作の続編はヒットしない"というジンクスを打ち破ったのも、名作たちと同じだ。「CLANNAD」という作品そのものが、"奇跡"みたいな存在でもある。

因みに比較した4シリーズは、「CLANNAD」及び「CLANNAD AFTER STORY」同様に登場人物たちの"半生"を描いている。

 

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いろんな"家族"がいて、それはたくさんの世代を超えて成り立っている。「CLANNAD」は、そういう人間たちの"家族"、"半生"、"青春"、"恋愛"を描いている。"家族の人生"とも言えるのかもしれない。様々なことがあるからこそ"人生"なのだ。

まさにこれが「CLANNADは人生」と言われる所以なんじゃないだろうか。

 

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Key作品考察 なぜリトバスのテーマは"兄弟愛"ではなく"友情"なのか

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⚠︎この記事にはリトルバスターズ!のネタバレを含んでいます。

 

さて、今回考察するのはリトルバスターズ!ことリトバス。前回上げたABの記事同様、主にリトバスのメイン"テーマ"について指摘していく。

 

これは自分にとって、リトバスの詳細が公開された当時からの疑問でもある。

 

タイトルの通りだが、なぜリトバスのテーマは"友情"なのか。この手のゲームにしては明らかに珍しい、というか異質な分野でもある。

 

そもそもkey作品は、"友情"より"兄弟愛"を描くことに定評があった。"兄弟愛"というのはリトバスより前の作品、KanonAIRCLANNADにも存在していて"伝統"の一つでもある。因みにリトバス以降の作品にも"兄弟愛"は度々描かれてる。ほぼ必ずと言っていいほど、"兄弟"の存在がストーリーやキャラクターたちに大きな影響を与えているのだ。

 

リトバスにも"兄弟"が登場する。"神北小毬と神北拓也"、"三枝葉留佳二木佳奈多"、そして"棗鈴と棗恭介"の3組だ。この3組に共通しているのは"兄/姉が妹を守ろう"としている構図。そして3組が持ち合わせている"兄弟愛"は変わっている。f:id:hiirow:20180213131316j:plain

まず小毬ちゃんの場合、自分自身を守るためとはいえ"兄の存在"を思い出したり忘れたりを繰り返している。しまいには理樹を兄だと認識するような状態だ。(幾ら何でも兄を忘れてしまっては愛もへったくれもない。)それでも拓也が妹を守ろうとしていたのは確かだろう。

二木佳奈多の場合"愛のすれ違い"だった。愛しているがゆえに、守りたいがゆえに、どうすることも出来ず、冷たい態度を取り"妹"を避ける以外の方法がなかった。そうやって妹を守るのだ。Kanonに登場する"美坂栞美坂香里"の姉妹もまさにこれと同じ。f:id:hiirow:20180213132231j:plain

一番ぶっ飛んでいるのは"鈴と恭介"。恭介は愛する妹を守るために、"ループ世界"を生み出し、仲間を巻き込んで、自ら憎まれ役を買って無理にでも鈴を"独り立ち"させようとした。かなり強引な手段なのだ。

おかしな"兄弟愛"なのは事実だが、兄/姉は必死に妹を守ろうしている。こればかりは確実。

 

ここからが本題。それだけ"兄弟愛"について描かれているのにも関わらず、なぜリトバスのテーマは"友情"なのかという点である。

 

捉え方によっては、理樹と恭介、理樹と真人、理樹と謙吾、西園美魚と西園美鳥などの"擬似兄弟"を描いていたとも考えられる。もっとも、これは指摘し始めたらキリがないのでやめておこう。

 

仮説だがリトバスという作品は、意図的に"家族や兄弟"等のテーマは外したのではないだろうか。よく仲の良い兄弟は"一種の親友"みたいな存在になるという話を聞く。例えばAIRの"美凪とみちる"の関係は、姉妹でもあり親友でもあった。リトバスの"三枝葉留佳二木佳奈多"だって、最終的には仲の良い姉妹になっていた。これも姉妹だけど"親友"という関係に近いのではないだろうか。むろん、"鈴と恭介"も親友系兄弟の一つである。

親しい"兄弟"には、"友情"が存在しているということだろう。

 

また、AIRCLANNADで大きく"家族"を題材にしているため、マンネリ化を恐れた製作陣が、万人ウケの良さそうな"友情"をテーマに切り替え、"家族愛や恋愛"描写は控えた可能性も考えられる。

もう一つの可能性は、CLANNADで描かれていた"岡崎朋也春原陽平"の"友情"、そして"春原陽平春原芽衣"のような"兄弟愛"を描きたかったというもの。これも大いにありえると思う、春原の人気は侮れない。

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リトバスはよくある"ヒューマンドラマ"や"ラブストーリー"をあえて外し、「全ての生物に"友情"は芽生える」と言いたかったのかもしれない。例えその相手が兄弟だろうが、恋人だろうが、動物だろうがそれは変わらない。

何にせよ「リトバスは友情」だったのだ。結局リトバスにおいて全ての関係は、"友情"になっているのかもしれない。

Angel Beats!考察② 本当のテーマと伝えたかったこと それは一番の宝物にあった

hiirow.hatenablog.com

hiirow.hatenablog.com

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⚠︎ この記事にはAngel Beats!のネタバレが含まれています。

 

前回の記事の続きです。

Angel Beats!考察① Angel Beats!とはなんだったのか 製作陣の狙いとは?? 鬼門はCLANNAD超えだった→http://hiirow.hatenablog.com/entry/2018/02/11/120654

 

前回の記事で、製作陣の狙いは考察出来た。

今回の記事では、Angel Beats!の"裏のテーマ"と"伝えたかった"ことを考察していく。

 

まずテーマだ。前回の記事でABの"キャッチコピー"は、"CLANNAD超え"をするための理不尽な人生"を意識をしていたのではないかと指摘した。公式のテーマ"人生"である。

では逆に、他のテーマを模索してみよう。リトバスのような"友情"はどうだ??

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確かに、ABとリトバスには似たようなところもある。だが、この2作品の本質的部分は完全に違う(ABとリトバスについては後日記事にする予定)。もちろん、多少は"友情"について描かれているのかもしれない。

ならAIRCLANNADのように"家族"がテーマに入っていなかったのか。

 

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"家族"も違う。音無と音無初音の関係を全面に描いたりはしてないからだ。

 

 

「俺たちの生きてきた人生は本物だ!!!」

「何一つ嘘のない人生なんだよ!」

「みんな懸命に生きて来たんだよ!」

「そうして刻まれてきた記憶なんだよ!」

                                  中略

「お前の人生だって本物だったはずだろ!!!」

 

これらのセリフは主人公の音無が、直井に向かって言ったもの。まさにこのセリフの通りなのである。「人生というのは理不尽、生きるのは辛く苦しいこと」。それでもたった一つの"人生"。受け入れるしかないのだ。

 

「神様ってひどいよね、私の幸せ・・・全部奪っていったんだ・・・」

 

 

ユイのセリフだ。"神様"がいるかいないかはさておき、死んだ世界戦線のメンバーは最後に幸せを得ている。ユイだって、日向のおかげで幸せに消えることが出来た。そう、ABの伝えたかったこととは「生きてれば、きっといつか幸せになれる」なのだ。どれだけ不幸まみれだったとしても、きっと"幸せ"になれる。例え"死んだ後"でも幸せを掴める。

 

 

もう一つ、大事なメッセージがこの作品にはある。

 

2話のギルド回にて、ゆりっぺはさらっと重要なことを言う。"ここに自殺した人間はいない"。みんなあれだけ"報われない人生"を送ってきたというのに、自殺をしたメンバーは誰もいないという。ゆりっぺが言うならそうなんだろう。誰一人自ら人生を絶ってないのだ。生きるという行為を諦めていないのだ。

 

 

「ひとりでもゆくよ 死にたくなっても

    声が聞こえるよ 死んではいけないと」

10話と最終回にて視聴者の涙腺を決壊させた一番の宝物の歌詞である。このフレーズはユイバージョン、最終回バージョンともに入っている。この歌詞にこそ、ABの伝えたかったことが描かれていた。"自殺防止"、これが"もう一つのテーマ"だったのだ。"自殺"をしたら、死んだ世界戦線のようなチャンスをもらえる場には行けない。だから、"生きろ"。これは戦線メンバー、だーまえ自身、製作陣、そして視聴者へのメッセージでもある。

 

まとめると「生きてればきっと幸せになれるから、自殺しないで」ということ。

戦線メンバーみたいな"不幸まみれの人生"を送っていても自ら命を投げ捨ててはいけない。諦めなければ、報われる日が必ず来る。

 

これは、だーまえ自身、製作陣、そして我々視聴者全員に発信されている。

 

考察してみるとABの"テーマ"はなかなか深い。そして多くの鍵っ子が、この"テーマ"と"メッセージ"を受け取って生きている。改めて、"力強い作品"だなと思った。

余談だが、死ぬ前に1作品だけアニメを見れるなら何にするか?という問いに対して自分はABを選択します。

Angel Beats!考察③ AngelPlayerを含めた荒い設定なんだったのか?に続く

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key作品考察 Angel Beats!とはなんだったのか 製作陣の狙いとは??鬼門はCLANNAD超えだった

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Angel Beats!とはP.A.WORKSによって作られた、key初のオリジナルアニメである。脚本を書いたのは、だーまえこと麻枝准

 

賛否両論はっきり分かれた作品だが、ABから鍵っ子になった人も多い。新しいkey作品なのだ。

 

製作陣の狙いは"新規ファン"を獲得することだけだったのか。違う、それだけじゃない。

 

当時のPAは今ほど知名度もなかった。今でこそ、TARI TARISHIROBAKO凪のあすから花咲くいろは、Another 等が有名だが、ABより前のPA作品はtrue tearsCANAANしかない。そんな駆け出し途中だったPAは、だーまえとkeyに何を期待して何を目標に掲げていたのか。

 

P.A.WORKSの名を上げる作品、そしてその作品でCLANNADを超える」

 

まず、"PAの名を上げる作品"だ。keyには実績があった。過去に駆け出し途中だった制作会社の名を上げている。そう、言わず知れた"京都アニメーション"である。今となっては、涼宮ハルヒの憂鬱けいおん!らき☆すた、日常、中二病でも恋がしたい!、氷菓響け!ユーフォニアム等があるが出世作は間違いなく、keyのAIRなのだ。そもそもAIRが売れたからこそKanonCLANNADがある(俗に言う"伝説の京アニ三部作"の誕生でもある)。

ABはAIRのような役割を果たしてほしかったのだろう。もちろん、今考えればPA出世作true tearsなのかもしれない。でもABがある程度ヒットしたからCharlotteが出来たとも言える。それなりにAIR的役割は、果たしていたんじゃないだろうか。

 

大変なのはもう一つの目標、"CLANNAD超え"である。これには製作陣もだーまえも相当頭を悩ませたに違いない。f:id:hiirow:20180211124117j:plain

ABの企画自体、かなり前からあったらしいが作り手として、ライターとしてCLANNADを含めた過去作のクオリティを超えなきゃならないのは当たり前だ。

 

そうやって頭を悩ませて出来たのが、"既に死んでる"設定。これは従来のkey作品と比較すると、かなり現実的になったとも言える。なんてたって今までのkey作品と言えば、"超自然的な力(奇跡)"の発生によって、全てが丸く収まるパターンが多かった。多くのキャラクターは、自らを奇跡を起こし、そして幸せな人生を歩んでいる。それに対してABのキャラクターは、奇跡はおろか不幸まみれの人生を終えているではないか。彼らの人生に"奇跡"なんてなかった。

 

"CLANNADは人生"とはよく言われたものだが、ある意味ABの方が"人生"について描いている。もっとも"CLANNADは人生"はものの例えなので、あまりマジレスするのはやめておこう。

 

岡崎朋也古河渚の"半生"を描いた作品を"人生"と呼ぶより、不幸まみれの人生→死んだ世界での葛藤→そして新たな人生を歩んでゆく過程の方が"人生"と言えるんじゃないだろうか。

そもそもABのキャッチコピーは「麻枝准が綴る、最高の人生賛歌」。このキャッチコピーは明らかにCLANNADを意識している。

 

 

PAの"目標は、かなりハードルの高いものだった。それだけ、keyと麻枝准に期待していたのかもしれない。そして"CLANNAD超え"は簡単には出来ない。"CLANNAD"という作品はkeyにとっても難敵になっているのだ。

賛否両論あるABだが、何はともあれこの作品から鍵っ子が増えたのは喜ばしい。

Angel Beats!考察②へ続く。