Key作品planetarian考察 あの世界で星は何を意味するのか
先日、アニマックスにて「planetarian 星の人」が放送されていた。keyの中では、比較的知名度の低い作品なので、アニマックスで初めて見た人も多いかもしれない。
そもそも最初にゲームが発売されてから、もう14年近く経っているので知らない人が多いのも致し方ない。
アニメ化するまでに12年もかかったのだ。
そんなplanetarianは、keyの中でも珍しくディストピア風な世界が描かれている。世界大戦の爪痕がいたるところに残っていて、世界の秩序は崩壊している。戦争から生き延びたわずかな人類は、ロボットたちから逃げ回るのに必死だ。
皮肉なことに、ヒロインのほしのゆめみが社会問題について言及する場面がある。奇しくも、今現在我々が抱えている問題と同じだ。「今の社会問題を解決することが出来なければ、planetarianのような世界になる」というメッセージが込められているのかもしれない。
そういったことを頭に入れつつ、本作の考察をしていこう。
考察「壊れかけたあの世界において、星には何の"意味"があるか」
管理人が考察するに、あの世界の"星"は"希望"のメタファーだろう。
planetarianでは、常に雨や雪が降っているせいで、"星"は一切見ることが出来ない。だが、"星"は存在している。
"希望"もそうだ。直接見ることが出来ない、"星"と同じく不確かな存在。それでも諦めることがなければ、必ず見ることが出来る。星の数ほど希望はある。
例え悪天候な日々が続いたとしても、例えプラネタリウムの電力が途絶えたとしても、屑屋が出来たように、"星"も心の中で見ることが出来るのだ。ゆめみの記憶(メモリー)には、雨や雪が降ってるような様子はない。戦争が始まる前は、星(希望)は見れたということだろう。また、希望を信じている人間も大勢いたんだろうし、世界も希望に溢れていたのかもしれない。
屑屋が最初にプラネタリウムに訪れた時、「誰が星(希望)なんて・・・」という感じであった。彼にとって"希望"はなく、今を生きるのに必死だったのだろう。その一方で、彼は"星のペンダント"をしており、二重思考の持ち主とも言える。それが終盤では、「ゆめみと共に旅をし、生き残った人類たちに星(希望)を見せるのも悪くない」と考えていた。彼は"信じる心"を取り戻したのだ。そして年老いた後も、"星の人"になり、星(希望)を見せていた。
残念ながら、"信じる心"を失った人間も多い。劇場版の「星の人」では、救いはなく、自分たちは滅びゆく存在だと思っている集落が登場する。"希望"を信じていないのだ。
皮肉なことに、ほしのゆめみは誰よりも"信じる心"を持ち合わせていた。人間ではない"ただのロボット"である。しかし、作中では彼女こそが、一番純粋な心を持っているような気がする。それはおかしい、ほしのゆめみは"ただのロボット"のはず。"腐りきった世界"で人類は"信じる心"を失い、いつの間にかロボットが人間より、心があるような行動を取っていたのだ。ゆめみは、一人になってもプラネタリウムに客が来ると信じていた。プラネタリウムが壊れても"誰かが"直しに来ると信じている。世界が壊れているとは思わず、自分自身が壊れていると判断する。人間のことを信じ続けていたんだろう。最終的に、屑屋が訪れたことによって、その思いは報われる。諦めず信じ続けた結果だ。
「星の人」に出てきた3人の子供たちは、事あるごとに、祈り信じ続ける純粋な心の持ち主たちだった。祈りを捧げる相手は人間の産物(ロボット)だったが、そんなことは大事じゃない。
"星の数ほど希望はある"
大事なのはこれだ。諦めず祈り信じ続けること。もちろん、解決するために"努力する"のも当然だ。本作では、ゆめみは"人"のことを信じ続けていたが、ついぞ何かを解決することはなかった。それにもメッセージが込められている。
"人間の問題は、人間にしか解決出来ない"
ロボットにはどうにも出来ない。出来るのは、せいぜい星(希望)の存在を教えることだけ。後は我々人類が努力しなくてはならない。今、環境問題を含めて様々な問題が世界には存在しているが、それを解決出来るのも今存在している人間だけだろう。
さて、ここまで考察してきたが、planetarianは社会派作品ではないだろうか。こういう"ジャンル"のkeyも悪くない気がする。そういったことを踏まえて、ぜひ「planetarian」という作品を皆に触れてほしい。